遺書の話

タイトルで驚いたかもしれないが別に死ぬわけではない。

Twitterでこの間不思議なニュースを見つけた。ダイヤモンド葬というものだ。

 

日本では人は亡くなったら火葬して骨壺におさめられ墓に入ることが多い。

もしかしたら海に骨を巻いたり宇宙に飛ばしたり、中には鳥葬なんて人もいるかもしれない。


ではダイヤモンド葬とはどういうものなのか。公式サイトによると世界で最も美しいご遺骨供養の方法と書いてある。

なんでも遺骨に含まれている炭素と抽出して黒鉛へ変換しダイヤモンドを生成するのだそうだ。

値段はカラットによるが、約50~250万円ほど。

人間の体の成分は大体は一緒と言っても一人一人個人差がある、骨密度だって人によって違うだろう。

つまり、本当の意味で世界に一つだけの宝石になるのだ。

しかも、骨すべてを使いきって作ることが出来、さらには墓に入れて何年もたった骨でもできるらしい。

 

なかなかに魅力的だ。自分が死んだあとに大切な人が自分の遺骨で作ったダイヤモンドを身に着けて思い出してくれるならとても素敵だろう。

いや、少々変かな。

それにすべての骨を使って作れるのであればお墓が必要なくなるので経済的かもしれない。

 

公式サイトのダイヤモンド葬の特徴を見てみると、お骨の成分のみでできた究極の形見と書いてある。

確かにそうだ。死にゆくものにとって死後の周りの反応は気になるものであろう。

 

昨年話題になった映画『君の膵臓を食べたい』の中で誰かに食べてもらうとその人の中に生き続けることができるのだというシーンがあった。

それも形のない形見のようなものだろう。

形見というものはどんな小さなものであっても非常に大きな意味を持つものだ。

 

形見には2種類ある。

亡くなる前に本人の遺志でその人に渡るものと、当人が亡くなってから周りの人が勝手に持っていくものだ。

どちらも亡くなった人を思い出させる重要な物には変わらないが前者の方がなんだか温かい。

 

その中に手紙という形をしているものもあるだろう。

人生最期の一番思いのこもった手紙、遺書だ。


人間はいつ死ぬかわからない。

病気で死んでしまうかもしれないし、事故にあうかもしれない、はたまた通り魔に殺されるかもしれないし、寿命を全うできるかもしれない。

 

悲しいけれど、自ら命を絶つ人もいるだろう。遺書は誰にでも書けるものではない。

 

そりゃそうだ。

 

死を覚悟しなければ書けない人生最後の手紙なのだから、死と隣り合わせになければ書かないし、書けない。

 

世の中にはいいろんな理由で死に直面している人達がいる。

そんな人達を差し置いて19歳の誕生日に私は唐突に遺書を書きたいと思った。

 

ずっと平凡な暮らしをしてきて、これからも続いていくんだろうなと思うとなんだかこの世界に、誰かの心に足跡を残したいとそう思った。

 

普通の遺書では面白くない。

死なないとできないような爆笑の死後ジョークをいれるか、はたまた遺産はないが人生をかけた謎解きゲームでもしかけようか。

 

これまで隠してきた数々の秘密を墓場に行く前に封筒の中に閉じ込めようか。

 

初恋のあの人にもメッセージを残そうか。

 

いろいろ考えあぐねている間にいつの間にか寝てしまっていた。

朝になって目が覚めた私は紙と鉛筆をしまった。

 

また来年の誕生日に書こう。

そうだ、毎年誕生日に遺書を書いて上書きしていこう。

そう思った。


あれから何年もたったが未だ私の遺書は白紙のままだ。

来年こそはきっと。

そんな生ぬるい覚悟で私は今日も平凡な日常の中をのらりくらりと生きている。


来年こそはきっと。

 

それではまた。

 

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